その友人は人里離れたところに暮らしているので、訪ねるには一大決心が必要なのだった。
でも僕はその友人が好きだし、そもそも好きでなければ友人なんてやってないし、だから一大決心もわりと気軽にできてしまって、それなりの頻度で会いに行っていた。
僕の声を聞くと友人は、まぁ茶でも飲むかい、といって湯を沸かすのだ。ひょっとすると迷惑かもしれないけど、少なくともそれを言葉にしない程度には、僕は受け入れられているのだと思っている。
その日は少しばかり様子が違っていて、友人は僕が声をかけてもなかなか気づかず、冊子状の原稿用紙を膝の上に置いたまま、ぼけっと空を眺めていた。
「なにを考えているんだい」
「……ああ、君か」
「見ていいかな」
覗き込むと、原稿用紙の三行目には、『遺書』と書かれていた。
なにしろ変わった奴だから、そのままの意味にとるのもどうかという感じなのだが、さすがに僕もびっくりしていたのだろう、思わず読み上げてしまった声は、少し裏返っていたと思う。
「遺書?」
「難しいな、いざ書こうとすると」
「書こうって、遺書を?」
「遺言の方がいいかな」
「なんで」
「画数が少なくて、楽だ。そうだな、遺言にしよう。……まぁ、茶でも飲むかい?」
ようやく、いつもの調子に戻った。というより、突拍子もないことを真面目に淡々とやりはじめるのが、この友人の常態であるから、最初からいつもの調子ではあるのだ。僕もいつもの調子に戻るべきだろうと思ったが、これまた正直いって、この友人の言動にびっくりしつつ、できるだけ平静を装うのが通常営業であるから、やっぱり、なにも珍しいことはないのだった。
「近々、死ぬ予定でもあるのかい」
「自発的にという意味でなら、そんな予定は入れてないね。でも、いずれ死ぬことは死ぬだろうし、それがいつかはわからない。といって、毎日毎日『明日死ぬかもしれない』という心構えで生きるのは、疲れそうだ」
そう思うだろう、と友人は眉を上げた。同意を求められたからといって、素直に受け入れると馬鹿にされることもあるのだが、今回は異論もないし、うなずいておくことにした。
「だろうね」
「でも、いざ死ぬときになって、あいつとは喧嘩したままだったとか、奴に謝っていないことがあったとか、心残りにならないように、そういったものを書いてみようかと思ったんだよ」
「喧嘩したままって、誰だよ」
「君じゃないことは確実だね。おっと、お湯が沸いた」
ここのヤカンは、僕が贈ったものだ。考え事をしていて底を焦がしてしまうというので、沸騰すると笛の音がするのを土産に持って来たことがあるのだ。友人は、風情のない音だとか、耳に痛いとか、さんざん文句をいっていたが、今では当たり前のように使っている。そして、未だに底が焦げたりはしていない。
「じゃあ、謝っていない相手は、誰だよ」
「君じゃないと思うが、なにか心当たりでもあるのか?」
「ないよ。いや正確にいうと、あり過ぎてどうでもいいよ」
「君もたいがい失礼な奴だな。なにか謝罪が必要なことがあるならいってくれ。ちょうどいいから書いておこう」
「僕のはまだ書いてないんだ?」
「君のも誰のも一通も書けていないよ。自分がこんなに文才がないとは思わなかった」
謝るのが嫌なだけなんじゃないのか、という疑念が心を過ったが、いわずにおいた。そのへん、絶対に認めないだろうと思ったからだ。
「文才がないって話なら、僕の方が自信あるな」
「そうかい?」
「そうだよ、なんかだらだらしちゃうんだよね、文章がさ」
「それは君がだらだら考えているからだろう」
一刀両断されて、それでも僕は笑ってしまった。不快を覚えても無理のない発言なのに、なぜだか、おもしろく感じる。
「おもしろいよね」
「なにがだ」
「だらだら考えない人と話すのは、おもしろいよ」
「そりゃ、自分と似ていないからだろう。他者と交流する意義の第一は、そこにある。自分に似ていないもの、自分以外のなにかの存在を認識することだ」
「第二は?」
「承認されることだろう。自分以外の誰かに、自分の価値を認めてもらう」
これには、少し、おどろいた。僕は尋ねた。
「じゃあ、第三は?」
「第三から先は、人によって変わってくるからなぁ。一と二は、おそらく、大差ないんだ。君でも、誰でも、他者という存在を必要とする。自分でない誰かを欲するんだ。まずその存在。そして次に、その存在に自分が受け入れられること。そこまではいいんだが、三となると、個々人の個性に応じて、欲求も変化していくと思うんだ。だから、第二までしか定義しないでおこうと思う。ああ、これはもう書いたんだっけな……うん、たしか書いた」
友人は、人の心について考えている。そのくせ、人づきあいは苦手だといって、こんな辺鄙なところに住んでいる。距離を置いた方がよく見えるに決まっているだろう、というのが友人の弁だ。
その考えとやらを友人は書き留めているから、今の自問自答は、そのことだろう。部分的に読ませてもらったことがあるが、文章に色というものがあるなら、この友人が書くのは『白』だと思う。無駄がないとか、簡潔だとか、平易だとか、僕はその都度、感想を述べるわけだけども、一回だけ、白いという感想を口にしたことがあった。すると友人は、画布が白いからかとか、無限の可能性がどうこうとか、そういうのは嫌いだと勝手に解釈してぶつぶつ文句をつけていたが、僕はそういう意味では『白』をとらえていなかった。
敢えて言葉にするなら、それは、潔癖という表現が似合う気がした。なにも必要としない、すでに完成されて他者を拒絶する、そういう意味での『白』だ。だから、他者の存在をそんなに重く見ていたこと自体、僕にはおどろきだった。
「君のその遺言というのは、第二の範疇に入るのかな」
「ああ、……これは第三かな、個人的なものだが」
お茶を飲んで、意味があるようなないような話をして、帰り際に、せっかく持って来たのに自分で持ち帰りそうになった土産を渡して、それから僕はようやく問うことができた。
「君が他者を必要とする意義の第三って、なんだい?」
「わからないのか」
「うん」
「遺言の内容については、話しただろう?」
「聞いたよ」
「わからないのか。しかたないな。第三は、許しだ。他者に、許してもらいたいのだろうな、たぶん」
珍しく歯切れの悪い表現をして、友人は笑った。一緒に笑うべきか少し迷って、結局、僕は笑わなかった。
「じゃあ、僕には書かなくていいよ、それ」
「それってなんだ」
「遺言だよ」
「ああ、そのそれか」
「どのそれだよ……とにかく、いらないよ。君を許さなきゃいけないことなんて、なんにもないし」
「そっちがそう思っていても、こっちが許されたいとしたら、どうすればいい」
「許すよ」
「……珍しく、だらだらしてないな」
「だって遺言なんてさ、……気になるし。なにを書いてくれるのかなって、それは興味があるけど、もし君が死んで、遺言を見たらどんな気分がするだろうって想像しちゃったんだよね。なんか、すごいよ」
「すごいのか」
「うん、すごい。かなりの衝撃だよ」
友人は、珍しく反省したような表情を見せた。
「そうか」
「しかも聞いてみたら、許してほしいとかさ。誰かに許してもらうのに、そんな死を覚悟するみたいな度胸、必要ないよ。とくに僕には、なんもいらないから。考えてもみるといいよ、君はもういなくて、『許してくれ』って書いた紙だけ残ってるんだよ。僕がどんな気もちになると思う。生きてるあいだに許させろよ、って腹が立つよ」
「腹が立つんだ」
「そうだよ」
「……なんだか、珍しいな」
「それくらい、すごいんだって」
「そういうことか」
「そういうことなんだよ。もし許さないとすれば、僕より先に、納得のいかない死にかたをしたときかな」
「納得のいく死にかたって、なんだ」
そんなことを訊かれても困るので、はじめに思い浮かんだ答を口にした。
「豆腐の角に頭をぶつけるとか」
「なんだその難易度の高い例。だいたいそれ、納得いくのか」
「ううん、どうかな。なんかでも、君がその気になったら、やり遂げそうな気はするな」
「豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ気になるっていうことか。それはさらに難易度高そうだぞ」
「いや、むしろ死ぬ気もなく豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ方が難易度高いんじゃないかなぁ。やる気があれば、やる気がないよりは、いけるんじゃないかと思う」
「……もういい、豆腐は忘れよう。あれは頭にぶつけるものではない」
じゃあまた、と僕は友人に別れを告げる。
だから僕宛ての遺言はなくなったと思っていたのだけど、後日、死ぬ気で書いたから、死にたくなったときにこれを開けろという手紙が入った封筒の中にまた封筒が入ったものが届いた。
いざというときに役立てるために、開封していないと伝えたら、友人は笑った。君なら、中を見ないままでいられそうだな、と。
——
なんとなく出てきたので書いておくけど、なんだろうこれ。